ようこそ南半球の“森のバター”   ¡Bienvenidos a Japón!
 

 キッチンに転がる翡翠色の卵、アボカドの熟れ具合を慎重に見極めてこしらえる “パン・コン・パルタ(Pan con Palta)”、アボカド入りのサンドイッチ。私のお気に入り朝食メニューのひとつだ。つぶしたアボカドに、紫オニオンのみじん切りを混ぜ合わせ、塩、コショウを振りかけた具をフランセサと呼ばれる丸いパンに挟んだシンプルなもの。人によっては、チーズやハムを追加、あるいは、具はアボカドのみ、という人もいる。

              

 家庭でササっと作るもよし、朝、バス停近くに出没する屋台のサンドイッチ屋さんに、駆け込むのもよし。屋台では、健康ドリンク、エモリエンテと店主や常連客の談笑をお供にしたい。街のあちらこちらで見かけるラッシュ直前のこの、ほのぼのとした光景は、リマの風物詩のひとつといえる。  

           

ペルーのアボカドの多くは、日本でお目にかかるアボカドよりも大き目だが、南部山岳地方のアレキーパを旅すると、珍しいミニアボカド探しに胸が弾む。一般的に、味はコクがあり、しっかりとした旨味がある。これぞ、正真正銘の“森のバター” だ。
 
 さて、日本ではまだ無名の地位に甘んじているペルー産アボカドだが、昨年、ペルーはメキシコに次ぐ世界第二位の輸出国に躍り出た。市場やスーパーマーケットでは、常に山積みにされ、また、道ばたでは、食べ頃を丁寧に指南してくれるアボカド売りを一年中見かけるほど、アボカドはペルー人にとって日常の食べ物なのだ。

 そのアボカド天国から満を持して“森のバター”が、日本へやって来る。長い政府間の検疫問題に終止符が打たれ、今年6月に条件付きで解禁が決まった。そして、8月には空輸便が届き、9月末には船便が到着する予定。いよいよ本格的に巨大日本市場への参入だ。

                                                                    

 ペルーでのアボカドの主な生産地は、コスタと呼ばれる温暖な沿岸地域。北はピウラ州から南はタクナ州まで、ラテンの陽射しを浴びながら南北に産地が広がる。原産国は中央アメリカ。ペルーでは、インカ以前からアボカドが存在していることが16世紀の侵略者スペイン人の記録に残されている。
 また、ペルーの市場でアボカドに遭遇した旅人は、その豊富な品種に驚いた事だろう。ペルー人テイストは、フエルテ種に軍配が上がる。フォルムは洋梨に似て、スベスベとした緑色の皮は薄く、水分を多く含み、実は柔らかいのが特徴。その他にハス種、スタノ種、エドゥラノール種などがある。日本に輸出されるのはハス種。その理由は、そもそもペルーにはチチュウカイミバエという害虫が存在し、輸出のために低温処理や燻蒸処理といった駆除が施されていたが、果実の劣化が著しく、商品価値が低かった。そこで、アメリカ政府とペルーの国家農業検疫庁(SENASA)が2年間にわたる共同調査を実施し、ハス種に限っては、チチュウカイミバエが付着しない事が実証されたのだ。アメリカが2011年にイチ早く未処理のハス種を輸入し、ペルー産アボカドの信頼を高め、用心深い日本がその後に続いたというわけだ。
また、ハス種は他の品種と比べて皮が厚く堅いので、運搬時の衝撃に強く、また味の面でも水分が少なく、濃厚な味わいを持つ。日本で出回るメキシコ産も同じくハス種。まさに日本人が待ち望んだ対日貿易の幕開けである。

                                                               ハス種 palta hass

                                                       フエルテ種 palta fuerte
                   
  そして、熾烈なシェア獲得争いが予測されるペルーVSメキシコに関してだが、価格面では、収穫時期にもよるが、メキシコ産とは大差がなさそうだ。また、ペルーもメキシコ同様、一年を通して異なる産地から収穫できるので、安定供給が可能だという強みは互角といえる。残る課題は、プロモーションだろうか。一抹の不安が胸を過る。「ファイト!Promoperu(ペルー政府貿易観光庁)」
 
  さて、“アボカドは熟すと黒みを帯びる”これ、私たちの常識。ハス種も同じだ。しかし、ペルーのアボカドの中には熟れても緑のまま、あるいは少しだけ色が濃くなる程度のものも多い。幾度となくこの翡翠色のベールに翻弄されたことか。その種のアボカドにはご用心。黒っぽくなるまで、にらめっこしてはいけません。そして、興味深いペルーでのシェアダントツのフエルテ種は、ぜひ本国で味わってほしい。
 
 次に期待するメイド・イン・ペルーは、“森のアイスクリーム”の異名を持つ、チリモヤ。あの甘く心身とろけてしまいそうな衝撃は、ペルー産がナンバーワンだと、私は思っている。こちらは正真正銘、原産地はペルー。すでに日本とペルーの協議は進んでいる。初来日は、そう遠い日ではない事を願う。
 
 さて、11月にペルーの料理人ガストン・アクリオを描いたドキュメンタリー映画 “美食を超えたおいしい革命”が、東京で上映される。
 そこで描かれているのは、食で国を動かそうと尽力するペルーの新しいリーダーの革命。彼の様々な偉業に国民も欧米の著名なシェフらも絶賛しているのだが、ガストンはいつも「ペルーは世界にも稀な食材の宝庫だったからこそ、誇りを持って世界にペルー料理をアピールできた」と語っている。食で国に革命を起こす男を生んだこのペルーという国は、どの角度から見ても好奇心をゆさぶってくれる。
 
ペルー料理探究家 仲宗根ゆうこ
ペルーのアイコン “ピスコサワー”
 
 スモークがかったレモンイエローの液体の上に、白い淡雪が降りてきたようなかわいらしいビジュアルのピスコサワー。ペルーといえば、マチュピチュやチチカカ湖を思い浮かべる人にとっては、あまりにも小洒落た飲み物に映るのではないだろうか。ピスコサワーは、ペルーで最も名高いカクテルである。
 
                                          
                                          <ピスコサワー>

 上質なブドウで作られた蒸留酒ピスコ、酸っぱさが魅力のペルーレモン果汁、シュガーシロップ、氷をいれてシェイキング。そこに泡立てた卵白を注ぎ、アンゴスチュラ・ビターズのしずくを落とす。実は、意外と手の込んだカクテルなのだ。アンゴスチュラ・ビターズの代わりにシナモンをふりかけるバーテンダーもいる。味わいは、唇に触れる泡のやさしい感触とは裏腹に、甘酸っぱさが襲う。そして、強いアルコールにすぐさま、体を熱くする刺激的な飲み物である。
 
 ペルーでは、フィエスタ(小さなパーティから盛大な宴会まで)という言葉はワクワクに直結するワードなのだが、そのフィエスタでウエルカムドリンクのピスコサワーが並んでいると、そのワクワクは、さらにヒートアップする。
 また、フェスティバルにも欠かせない。南米最大の食の祭典“ミストゥーラ”やペルー中で行なわれる食のイベントには、あちらこちらでピスコサワーの出店ブースが目を引く。
そして、2月の第一土曜日は、ペルー政府生産省が音頭をとって定めた、ピスコサワーのナショナルデーとなっている。いわば、ペルーのアイコン的存在なのだ。
 
                                                               
                        <Mistura ピスコ館>
 ピスコサワーの父と言われているのは、ビクトル・バングーヘン・モーリス(1873〜1929)。米国ユタ州ソルトレイク市生まれ。1903年にペルーへ渡り、鉄道会社の会計係として働き始める。そして、1915年、リマ旧市街で『Morris Bar』を開業。その後、ウイスキーサワーからインスパイアーされたピスコサワーが誕生したのだが、ビクトル作、ピスコサワーには、卵白は使われていなかったようだ。そして、このバーでひとつのレジェンドが生まれている。お酒にまつわる逸話が後を絶たない、文豪アーネスト・ヘミングウェイがキューバでモヒートを愛したように、ペルーではピスコサワーをこよなく愛したと言われている。とくに彼が飲みほしたピスコサワーの量は記録的だったそうだ。

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              <ヘミングウェイ>

そして、1933年、『Morris Bar』の閉店後、『Hotel Maury』で、現在のピスコサワーのスタイルが完成した。また、同じ頃、サンマルティン広場に面したコロニアルスタイルの重厚な趣の『El Gran Hotel Bolivar』でも、このカクテルが登場する。当時、このホテルはペルーの文化人らが集い、瞬く間に社交場の華として広まったそうだ。
 
 ことのほか、ナショナルブランドを賛美するペルー人ではあるが、このピスコサワーに限っては、格別のように見える。それは、このカクテルの味や手間、世界の文豪のレジェンド、そして、なんといっても気品ではなかろうか。ピスコサワーは、ペルーを代表する料理や飲み物の中で、際立った気品を放っているように思える。ペルー人が愛し、そして誇りに思うのもうなずける。
 
 私はと言えば、ペルー在留1年目から、バールにいけば、必ずと言っていいほどまずは、ピスコサワーをオーダーしていた。ピスコにもさまざまな種類があり、どの店も微妙な違いはあれど、このカクテルを口にすると、言葉の隔たりを忘れ、この土地が受け入れてくれているような甘えが出てしまう。ペルーは、そんな隙が満載だ。「まずい、まずい。一杯にしておこう。」と、戒めを心に刻む。
 とうていレジェンドは残すつもりはないけれど、フィエスタでピスコサワーのグラスの行列を発見すると、相変わらずワクワクは止められない。


ペルー料理探究家 仲宗根ゆうこ
“ピスコのめざめ”

 
 昨今、東京のペルー料理レストラン以外でも、ペルー産のお酒、ピスコを扱う店が増えつつある。
馴染みのバーテンさんに聞いたところ、「ピスコはちょっと面白いお酒」なんだそうだ。“面白い”とは?その答えを見つけるべく、ピスコ道を探ってみる事にした。
 
 ピスコは、ペルー国民が愛し、ペルーを代表するブドウを原料とした蒸留酒である。
色は、無色透明あるいは微かな琥珀色。パンチのあるお酒であろう事は一目瞭然。それもそのはず、アルコールは38〜48度なのだから。また、上質なブドウのみを使うため、
豊潤なブドウの香りと、他の飲み物では体験した事のない独特な味を持つ。ペルー国民が太鼓判を押すのも納得である。ポピュラーな飲み方は、ピスコ、レモン果汁、卵の白身などでシェイクするピスコ・サワー。
 夏の海岸でも、フィエスタ(パーティ)でも、堂々とした存在感を放ち、ついつい気を許してしまいがちな小悪魔的カクテルなのだ。


                                        
 
 元祖ピスコを巡って「我が国こそ発祥地!」と、ペルーとチリのピスコ戦争は、いまだ決着つかず。
 
 さて、その起源は、スペイン人が南米大陸に上陸した16世紀半ばにもさかのぼる。キリスト教布教の際、ミサにワインは欠かせなかった。そこで、司教フランシスコ・デ・カラバンテスがアフリカ大陸北西の大西洋に浮かぶカナリア諸島から、はるばるペルーへとブドウの苗を運んだのだ。当時、カナリア諸島は、新大陸へ進出する重要な基地だったのだ。栽培地として白羽の矢が立ったのは、リマの南に位置するイカ。乾いた土壌、強い陽射し、日照時間の長さなど、気象風土の条件がブドウ栽培に適し、また地代や労働費が本国に比べ魅力的だった。そのため、ワイン製造が盛んになり、17世紀に入ると、ワインだけに留まらず、ブドウを使った蒸留酒の製造も始まった。後にピスコと命名されるその蒸留酒はペルー全土とチリの一部へと広まるのだが、この時期をめぐって両国が発祥地問題を勃発させているのだ。18世紀、19世紀頃には、生産された蒸留酒をイカにほど近い港からスペインや世界のスペイン植民地へと輸出された。その港のある地域の名こそが、ピスコ。蒸留酒にも土地の名が付けられたのだ。



                                            

                                            
 
 では、ピスコの名はどこから来たのか?それは、先住民の言葉、ケチュア語で“鳥”を意味するのだそうだ。かつて、インカの民がリマから南へおよそ200キロの海岸地帯を訪れた際、大海原を飛び交う海鳥の多さに圧倒され、その地を“鳥ーピスコ”と命名したと言われている。
 
 そして、語源についてはもうひとつ。古くからこの地には、陶工技術に優れた“ピスコス”という共同体が存在していた。神へ捧げるためのお酒、トウモロコシが原料のチチャ・デ・ホラなどのアルコールを保存する壷を作っていた。その壷は、後に蒸留酒ピスコの貯蔵にも使われるようになり、また、この壷も“ピスコ”から派生した言葉“ピスコス”や“ピスキージョス”と呼ばれた。港の名前、共同体の名前、そして壷の名前が美酒、ピスコに由来していたのだ。
 
イカのワイン、ピスコの老舗蔵元、タカマの敷地内では、役目を終えた壷、ピスコスがさりげなく佇でいる。歴史を彩るかのように。
素焼きのその質感や丸みをおびたフォルムは、容易に400年前にタイムスリップを呼び起こし、旅心にふくらみを持たせてくれる。


                                             
 
 リマからピスコへと車を走らせると、砂埃が立つ砂漠地帯が永遠と続くのだが、ピスコ地方よりさらに南下し海を渡ると、風景が一変する島がある。バジェスタ島だ。島には、ペリカンやカツオドリの大群、オタリアというアシカの仲間、ペンギンがひしめきあうように住んでいる。そこはペルーのガラパゴスと呼ばれ、上陸はできないものの動物たちの暮らしぶりはボートから観察できる。遺跡に目がいきがちなペルーでは、この動物の島は私の目に異質に映り、また、観光客がライフジャケットに身を包んではしゃぐ姿も、気後れさせていた。しかし、この辺りのまばゆいほどの陽射し、真っ青な空、そして西海岸の荒々しい波の上を自由に旋回する海鳥に出会うと、もしかしたら、インカの民が、圧倒された原風景に近いのではなかろうか?また、インカ、インカ以前の遺物から鳥の存在が重要視されていたことを思うと、インカの民がその数だけに驚いたのではないはずだ!などと、想像の翼がぐんぐん広がり、リアルな生き物の島もがぜん面白い島へと変わってゆく。

ピスコ道、まだまだ続きそう。


ペルー料理探究家 仲宗根ゆうこ

 
オラ〜、コモエスタ??

南米市場KYODAI MARKET 店長のマルセロです! 

新しくブログがこちらに移転しました!! 

これまで同様、ペルーを中心に現地の生の情報やキョウダイマーケットの裏話などをアップしていきたいと思います!! 


取り急ぎ今後とも南米市場キョウダイマーケットをよろしくお願い致しますm(__)m 


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ペルー・ブラジル食品専門店 bien venido!
『KYODAI MARKET』
http://kyodaimarket.com/ 
Shop Director Masahiro Makino 
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     オンリー・ワンのインカ・コーラ!

 昨今、話題の美食番組「孤独のグルメ」のコミック版(こちらがオリジナル)で、ペルー国民がこよなく愛すインカ・コーラを発見!
なんだか、親戚の子が登場しているようなこそばゆさを感じる。





<孤独のグルメより>




 インカ帝国が栄えた地にふさわしいネーミングのこの飲み物は、コーラと名がつくものの黒い液体ではなく、鮮やかなレモンイエロー。そのインパクトに目を奪われた旅人も多いはず。しかし、ペルー人に言わせると「黄色ではなく、金色」なのだそうだ。かつて類を見ない黄金郷を築いたインカ帝国へのリスペクトは、未だ健在ということだろう。



 そして、爽やかな炭酸に、ラムネ菓子のような甘みや香りがある。日本人には、幼い頃、駄菓子屋で経験したようなノスタルジックな空間へのワープを誘い、親しみやすい。

 また、インカ・コーラは、ペルーのソウル・フードであるアンティクーチョ(牛ハツの串焼き)やポヨ・ア・ラ・ブラサ(若鶏の丸焼き)のベストパートナーとして、定着している。肉の旨味を凝縮した脂と香辛料を爽快に流してくれるのだ。
 マクドナルドやケンタッキーフライドチキンといったファーストフード店でも、黄色い炭酸は堂々とメニューにラインナップされ、一般家庭では、1.5リットルボトルが常備されているのではなかろうか。

 その人気ぶりは、アメリカ生まれの炭酸飲料の王者、コカ・コーラがペルーに乗り込んだ際にも揺らぐ事はなかった。惨敗を認めたコカ・コーラ社は、ペルーでの生き残りを賭けて、1999年、インカ・コーラを製造販売するリンドレー社に3億ドルを出資し、ジョイントベンチャー契約を結んだのだ。両社はペルー国内での飲料製造販売事業を統合し、コカ・コーラ社はペルー国外でのインカ・コーラの製造販売権を取得した。
 このエピソードは、「インカ・コーラは世界のコカ・コーラに勝利した!」と、ペルー人の自慢話しのひとつとなっている。



 さて、ここまでペルー人の心をわしづかみにしたインカ・コーラのルーツはというと、1910年にさかのぼる。リマにほど近いカヤオという港に降り立ったホセ・ロビンソン・リンドレーとその妻。ペルードリームを胸に抱いてやって来たイギリス系移民だ。ほどなくしてリンドレー夫妻は、リマでホームメイドの炭酸飲料を売り、生計を立てるようになる。



<イギリス系移民リンドレーファミリー>

 1935年、夫妻に転機が訪れた。リマ建設400年を記念して販売したのがインカ・コーラ。その際のスローガンは、「インカ・コーラは、オンリー・ワン!」だったという。当時は合成着色料や香料を使わずレモングラス、レモンバーベナなどの薬草をベースに製造し、着色にはレモングラスの花粉が使われていたそうだ。商品のネーミング、カラー、そしてその味は、後に国民を虜にしてゆく。
 移民としてリマへ渡り、新しいホームタウンで受け入れられる商品づくりに試行錯誤した夫妻の意気込みが伝わって来る。



<リンドレー社の古いスナップ>



<インカ・コーラの古いポスター>


 そして、現在では、ペルーから世界へ散らばるペルー移民の暮らす街へと、インカ・コーラが輸出されている。移民にとっては故郷を懐かしむ飲み物として、また、その地の人々にとっては新鮮な黄色いコーラとして迎えられ、ペルーに立つ巨木が根を這わすようにゆっくりと世界へと広がっている。

 ペルーに希望を持ってやって来た移民が生み出し、また、海外へ希望を持って移り住んだペルー移民が世界へとつなぐインカ・コーラ。ペルー人のアイデンティティとかつて南米大陸で栄耀栄華を極めた帝国への賛美が、オンリーワンの金色のコーラに込められているようだ。


ペルー料理探究家 仲宗根ゆうこ